昭和48年02月16日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
 教典のどこにも、罪という言葉は出てこないです。ここに初めて出てくるですね。重い罪じゃと。罪を犯すから罰をかぶらねばならん。けれどもお道の信心では、罰を当てる暇が有るなら、おかげをやるわいと。これは二代金光様のお言葉の中に有りますように、罰を当てる様な暇はないとこう言う。かというて本当に罰はないかというと、やはり罰と言えば罰と言えれる事実が有るという事。それをいわゆるお気付とこう言う。また心で殺すのが重い罪とこう仰る心で傷つける心で殺す。
 神様が見てござる見てござるから、その罪に対して罰を当てなさる。それを金光教では、罰とは言わずにお気付とこう言う。ですからそれをお気付と悟らせて頂く時です。それは、そのまま神愛という事になるのです。ですからよくよく頂くとこの世に、どういう重い罪を犯した人でありましてもです。心で殺すような又はありとあらゆる、そんなら重い罪を犯した人でありましても、神様がいうなら天網恢々粗にして漏らさずであって、それに対する所のお仕置きというものは有ります。
 けれどもそのお仕置きそのものがです、憎いからのお仕置きではないと言う事。神心からなるもの、神様の愛の心いわゆる神心である。そうするとそこには、罰というのでなくて神愛。私は金光教の信心の素晴らしいという事は、この世には悪魔もなからなければサタンもない。有るものは神様の深い深い御神慮だけ、神愛だけしかないと教祖が渇破しておられる所だと思うですね。だから神愛。
 それで段々信心をさせて頂く事によって、教えを頂き行じさせて貰い。昨日の朝の御理解じゃないけれども、天地の中にお恵みを受けておると言う事。その天地の御恩恵の中にです。例えば日に日に新しき日を賜りてと。毎日毎日これはほんなら罪人というかね、例えば、監獄の中におる人の上に於いても、日に日に新しき日を賜っておるのであり。天地の中に生かされ、天地の恵みによって生き、そして全ては天地に帰っていく。その事実を、私共が信心によって分からせて頂く時にです。
 私共の生きる全てが天地に寄与していく、天地に寄与しなければおられないという心。天地の働きに対して、いわゆるその神恩に報謝し奉る働きというものが、なされなければおられんのであり、世のお役に立たして頂かねばおられんのであり。天地自然を命あるものとして見、しかもそれをそのように受けとめて、天地自然と共に生きていく。こういう生き方が、現代には見失われているのではなかろうかと言った様な事を、昨日の朝の御理解に頂きましたですね。
 だから信心をさせて頂く者は、この見失われておるものに、気が付かせて貰う。頂いておるものに気付かせて貰う。今迄おかげとも、何とも思ってなかったものに、おかげと神の恵みとして受けさせて頂く。そこからです私は心で人を殺すような、傷付ける様な事は段々なくなってくる。天地に帰っていく時が恐ろしいでないと。昨日は久留米の石井喜代司さんの所の、お父さんの三十年でしたか、式年祭がございましたから、若先生と末永先生が参りました。
 それで皆さん送って来て頂いて、親戚が全部こちらにありますから、清之助さんと、喜代司さんと二人で二台の車で送って来た。そしてここへ皆寄せて頂いて、私が、裏へ下がっとったもんですから、先生にちょっとご挨拶をしたいと言うわけです。みんな、見えられました。それでまぁ色々お話させて頂いた中に、もうお年の方ばっかりなんですよ。一番上の姉さんが、幾つぐらいでしょうかね、高芝さん七十八ですか、もうとても元気です。そういう方達が姉妹三人ですかね。
 そすと藤島さん所は、昨日は息子が参って来ておりましたが、皆さんみえておられてから、もうあなた方がね、例えばお金に不自由はない。物に不自由はない。まぁいうなら結構な暮らしをさせて頂いておるというけれども。もうあなた方が生きた所で、そげん永くは生きられん。だから本気でひとつ極楽行きの稽古をしとかにゃいかんですよと。そしたら、昨日高芝さん方の奥さんがね、長年お参りして来たけれど。
 こげな御理解は先生初めて頂きましたと言うて、そのまぁ皆さん喜ばれたのかどうか知らんけれども、言われたんですけれどもね。もうそれはね地獄の沙汰は確かに金次第で出来るかも知れんけれどもね。もう極楽の沙汰だけは絶対金やら物やらで出来ないよと。と言うて地獄と言う事が、さぁ赤鬼青鬼に責められると言った事じゃないけれども。自分の心の中に不平が有ったり不足が有ったりしておる事は、既に地獄と同じ事よ。
 だからこの世でです本当に有り難い、勿体無いの心を開いておらなければ、もう間に合わん。折角こうして御神縁を頂いておるのですから、少しは神様の心が分かり、神様のお役に立たせて貰うというおかげを頂きなさらなきゃいけません。
 例えば久留米の石井さんの所の喜代司さんやら、清之助さんやら、とりわけ喜代司さんなんかという人は、いうなら信心の天才のような人だと思う。何故って言うて第一不平を言わん、不足を言わんでしょう。腹を立てないというのです。それだけでもこんなおかげを頂いておる。この人がちっと神様の事が分かって、お役に立てる位になったら素晴らしい事じゃろうと思う。そんならそういうのが、天才と言うけれどもです、信心の天才と言うけれども。それにはそれにちゃんと元が有る。
 私はいつかあちらのお祭に行った時に、一本の軸を見せて貰ったが。宮崎県の大淀教会で総代をしておったお父さんが。そして病気で亡くなったけれどもです。亡くなる寸前にです紙と筆を持って来いと言うて、大きく書いたのがです。大淀教会の発展を祈ると言う、祈るという字を、もう書けずして、そのまま亡くなった。という位にお道の事を思い、神様の事を思い思うて亡くなっていった。この人が極楽に行っとらんはずがない。その表れが喜代司さんのごたる信心の天才。
 成る程この人は人が変人風雅人と言うけれどもです。人からはそうであっても神様から、ご覧になれば素晴らしいという魂を持っておると言う事が、親の信心と言わなければおられないと私が申しました。お役に立つ死ぬが死ぬ迄分の頂いておる教会の発展を祈ると、いうならば書き残してそのまま亡くなった。それが形見にちゃんと取ってある。実は今日も、それを見せて貰って来ましたと言うて。
 お婆さん達が言いよりなさるとですもん。ですから私と貴方達がこうして、縁が出来るという事は、年に一回か二回かこうやってお会いが出来ると言う事は、いうならばそういうおかげの頂けれる、救いの綱を投げて下さるようなものだから。おかげ頂きなさらにゃいけませんよと。地獄の沙汰は金次第であっても、極楽だけは神様に許されなければ出来る事ではないですよと。お話をしました。
 ですから金光様の信心というのは、段々信心をさせて頂けば、そう言う事になってくるから人を殺す事も、勿論なかろう心で殺す事も、傷つける様な事も段々なくなっていきよらなければおかしい。それでもやはり、お仕置きというのが有る。人間にも有るように、神様も所謂心で殺すのは、神が見ておると仰るのは、神がちゃんとお仕置きをすると仰る意味なんです、罰を当てるという事なんです。けれどもそれを教祖様は、罰とは言わずに、お気付けと仰っておられる。
 してみるとです、分からせたいばっかりの罰ですから。それは普通でいう罰と言うものではなくて神愛だと。可愛いいからこそ、叩くのであると言う事になってくる時にです。その事に対するお礼がなされるのが、金光様の御信心。昨日善導寺の原さんが、御祈念中に頂いておられるのが「和なれば静かなり」と言う事を頂いておる。平和の和です。自分の調子の良い時気分のよか時、あれやらこれやらが、成就する時。何とはなしに口が軽うなる。何とはなしに体も調子に乗りすぎるような状態がある。
 嬉しい訳です。だから嬉しいのと、有り難いのとは違うのです。信心で言う和賀心の和です。この自分の心が和の時にはです。どうも言わんで済むです。いわゆる静かにしておれれるです。人の気嫌とらにゃならん事もなからなければ、お世辞言うことも要らん。と言うて、ブーッとしとるち言うのじゃなくて、もう心は愈々豊かで、有り難くて、もう静かぁに、神様有難うございますを、心に繰り返せれる所謂、静かな心というのが頂けれる。そういう心を目指す事が、金光教の信心なんですからね、和と言う。
 和なれば静かなり。喜々として態度は素晴らしいけれども、喜々としてお話なんかをしておる時には、少ぅし和が欠げておる時。それは自分の都合のよか、只寒い時に暖房のある部屋におる時の様なものです。そげんとばちょっと寒か所に出すと、あぁ寒かち言うてから不平を言うです。それでは和ではないのです。今朝私御神前で今日は朝から、どういうものか暖房が切れておった。
 だからもうご祈念中に、しみじみ背中から冷えてくる。その冷えてくると言う事が、しみじみ有り難い。これが寒のおかげだ。本当に暖房の中に、いつもおりますから、冬でありながら、寒のしみじみとした寒を味あう事が出来なかったのを、味あわせて頂くと言う事が有り難い。それにつけても、日頃暖房を頂いておると言う事は、まぁ何と有り難い、もうどちらにしても有り難いである。もうそれこそ内殿に響き渡る様な、あったでしょうが、おいさみが。
 内殿一杯にバーンという、御神殿から響き渡る様なおいさみでした。いかにですどのような事に対してでもお礼が、寒けりゃ寒いでお礼が言えれ、暖房が入っとりゃ暖房が入っとるで、有り難いと思わせて貰い、暖房が切れてしみじみ冷えてくれば、どうした事じゃろうか、誰か忘れとったっじやろか、油入れ忘れとらせじゃったじゃろうか、と言った様な事なんか、さらさら出て来ない。しみじみ寒を背中から感じれれる事が、有り難いとお礼を言っておる。
 だからそういう状態になる事を、和の心と言うのです。又は賀の心和賀心と言うのです。そういうおかげをお互いが目指してからの信心でなからなければいけない。自分の都合のよい時は有り難い、嬉しい喜々としておる。けれども反対の時には、もうクーッとしておる。言う事には、もうそこに険がある。それこそ人の心に傷つける。思わず知らず傷つけたり殺したりするような結果になる。それでは神様が見てござるのだから、必ずお仕置きは有る。罰は当たる。
 けれども、その受け止め方がです、私共はいつ人間ですから、いつどういう時にお粗末御無礼が有るやら分からん。そういう事を教祖はお気ずけと、私はそれを神愛だとこう言うておる。叩かれる事もいうならば、痛い思いをする事も有り難い。神愛救わなければおかん、助けねばおかんと言う神様のお心以外にはない。昨日私ある方に対して頂いた事の中に天が作った、神様が作られた災いというものは避けられると。それは神愛に満ちておるから。けれども自分が作った災いは避けられん。
 自分がめぐりを作るそしてそのめぐりの精でそこに難儀をする。これは避ける事は出来ない。例えば運命論なら運命論という。あんたは天が定めておる。あんたは五十迄しか生きらんと。ところが信心によって、七十迄も八十迄も生きる事が出来るち言う。今日はこういう災難が有るけれども信心によって、それは、避ける事が出来る。けれども自分が作った、自分の身から出てきたところのお粗末、御無礼から起きてくる、めぐりによってからのものは、必ずそこに表れてくる。
表れてくるけれども、それは神愛と受け止めさせて頂くというのが、そう言う事になる。愛するゆえに憎む、晴れ有り雨有り、天地は広大なるかな。その広大無辺な神様の、御神意、御神愛というものを、分からせて頂いてです。私共はそれは自分で作っためぐりの為に、苦しむ事も有りますけれども、それは罰を当てて下さっておるのではなくて、それによって分かれよ、それによって又一段と信心を研いていけよ。
 という御神意以外にはない。だからこの世の中には、神愛で充ち溢れておるというのが。金光教の信心である。その中にですそんなら、具体的に言うとお仕置きも有れば、言い替えると、罰と言う事になるかも知れんけれども。それを只罰と言うただけでは、罰かぶっただけになるのですから、その罰のおかげでと言うものが、伴うて来なければ、金光様の御信心と言う事にはならんのです。
 神が見ておるぞ。もう厳然として神様が、ちゃんと見ておって下さる。聞いておって下さる。そこでです私共の心というものがです。所謂人となりというものがです、和なれば静かなり、という心の状態を、目指させて貰うて、その為に、愈々本気で信心の稽古をさせて頂こうと言う事になるです。金光教の信心には、だから天罰と言った様なものは無い。有るものは神愛だけだ。そういう捉え方そういう見方。
 そこからいよいよ、日々が穏やかである。静かな心で過ごせれるおかげを頂き止めていかなければならない。和なれば静かなり。これはいよいよ私共今の合楽の方達が、味あわせて頂かなければならない所だと思う。そういう心をいよいよ本当なものにしていかなければならないと思う。それは寒かっても又は暖かかっても、どちらにしてもお礼が言えれる心を、和の心だと静かにしておれれる状態だと思うです。
   どうぞ。